「冤病ー双極性障害Ⅱ型と診断されて」
現在、自らの判断で、減薬を開始した2013年にまとめた原稿に、最新の知見に踏まえ、加筆修正を行ってますが、その一部を紹介します。
第1回
それは、バドミントン部の練習中の左足アキレス腱断裂から始まった。1998年の10月。
真っすぐ地元の整骨院に駆け込み、やはり「アキレス腱断裂」と診断。
「先生、何とか1ヶ月後の修学旅行に行けるようにしてください。俺、旅行の責任者で、どんなことをしても行かないといけないんです」と必死に頼み込み、手術ではなく、マッサージと電気治療で自然にくっつく療法を選び、翌日から、特別に「出勤する前の朝と下校後の夕方」の2回、治療を受け続けた。
そして、何とか修学旅行の引率を果たし(断裂後、1日も学校を休んだり、1時間の時間休暇すらとらず)、無事、帰って来た所までが実は、私の「心」と「体」の限界だった。
実に、その一ヶ月後には、朝、やってくるブルドーザーの前に身を投げ出せば、どんなに楽になるだろう」という意識にとらわれていた。
あるいは、誰よりも早く学校に行き、工事の足場の「あのへんから身を投げ出せば死ねる」とか、放課後の掃除の時、3階の教室の窓から下をのぞき込み、「ここからだと確実に死ねる」というふうに、「自殺」のことが頭をよぎり、常に同じことを考えていた。
当時、私は初めて社会科主任として、3年後のカリキュラムの問題と、翌年の高校教育研修会の会場校という問題も抱えていた。
特に前者の問題は、社会科教員全員の合意の下、教務主任や教頭とも綿密に打合せ、自信を持って職員会議に諮ったところ、同じ学年を組んでいた同僚から予想もしない猛烈な反対を受けてしまった。彼は常日頃、「センター試験での得点率から、歴史科目が不利であるということを口癖にしていたのに」
進学校での地歴科というのは、センター試験で100点ということで、どうしても英数国(各200点)に較べると低くと見られ、効率的な得点という観点から、理系の生徒には、日本史・世界史で受験させるよりは、地理や倫理・現代社会の方が有利と言えた。そうしたことを踏まえて、科内で、昼休みを返上して練りに練った案(理系から歴史科目を外す)を提案したのだが、数学担当の学年の同僚から、予想もしなかった反対を受け、数度の職員会議でも決着を見ず、次年度に検討が持ち越された。
その、過程で、それまで、地歴科の案に賛同していた教務主任が、がらりと態度を変え反対側に廻ってしまった。今から見れば、時間という解決法があったにも関わらず、あの時の私は、スピード感を持って何事も一気呵成に成し遂げようとする気持ちが強すぎたのかも知れない。次第に、「心」に重い蛎殻がこびりついてゆく。夕食後、すぐにベッドに。とにかく早く体を横たえて休みたかった。毎朝、3時にはやってくる除雪のためにやってくるブルドーザーの地響きで起こされ続けた。「休みたい」。
第2回
翌、1999年、地元の黒石商業高校に転勤した。初めての商業高校、気持ちを一新し、1学年担任、バドミントン部顧問として、左足を引きずりながら取り組み始めた。
子ども達の元気の良い挨拶、礼儀正しさ、明るい表情に励まされ、前任校とは違い、最も自分がやりたかった面白い授業を思う存分にやれた。
しかし、1学期の成績会議で、クラスの約半数の生徒が赤点を持つという結果に驚き、次第に、部活優先の実業高校の実態に戸惑いを感じ始めた。夏休みも1日の休みのない部活・・・教職に就く誰しもが感じるある種のカルチャーショック。
しかし、気を取り直し、左足の状態が良くなるにつれて、部活で以前のようにコートに入り、シャトルを打ち上げたりげたり、ゲームで汗をかくようになった。少し、気持ちに余裕が生まれたせいか、その年の10月の末から、それまでの25年間で、かき集めてきた「授業で生徒が目を輝かせて聞く話-史実・エピソード・新しい歴史的視点・読書案内」などを、毎晩、深夜2時頃までまとめ始めた。約半年で脱稿した原稿が、後に「語る日本史データベース」となる。
「今まで自分がやってきた事柄をまとめれば、次に自分が取り組むべき課題が明確になる」という動機からであった。これを、出版すれば、「これからの若い歴史教師達へ何よりの贈り物となるだろうし、多くの一般の方々にも、日本史の面白さを伝えられる」という気持ちになり、数社の出版社に持ち込んでみたが全て断れたが、文芸社から協力出版の形で
翌、2年目の2000年(46才)、「どうせ部活をやるなら」と、長年やってきたソフトテニス部の顧問を志願し、以後、毎晩8時まで、土日返上、年の休みが3日という世界にまる3年どっぷり浸った。当時、女子ソフトテニス部は、県下でも常に上位に食い込むほどの有名校で、専門の男子顧問共々、短パンをはいてコートで生徒と一緒に練習に明け暮れた。
2学年担任として修学旅行の総責任者や親睦会幹事長を勤め、帰宅してからは、毎晩、2~3時まで、原稿執筆をし7月には一応の脱稿を見た。大学の同窓会を企画し、夏に千葉から教授を招き、文化祭でもワンマンショー(MORIYAN GO GO 2000)を行い、同名のテープを自作し、試験で学年トップの生徒や、HRで、誕生日を迎えた生徒に無料で配布(父兄の一部も騒ぎ始め、県外の実物教材の仲間にも差し上げ計400本をさばいた)。
しかし、修学旅行の準備で大きく躓いてしまった。
第3回
修学旅行直前の11月の事前指導計画を、至急、同僚と相談し一応提出したが、周囲の動きは私には非常に緩慢に思え、なぜ、早め早めに動かないのだろうという焦りを募らせていた。前任校のようなスピーデイーな仕事処理と較べてしまい一人で悩み始めた。放課後の30分でも担任団が全員、職員室にいれば細部にわたる打合せも出来るのに、部活動や自分の授業の準備でさっといなくなってしまう。私はたった一人で11月の事前指導の計画表を見ては様々な不安に苛まれていった。
いつのまにやら、授業で使うプリントをただ漫然と眺めるだけで授業の構想が浮かばない。帰宅してからは、思い悩むことに疲れ果てて、夕食後、早く眠ることだけが習慣化していった。部活も次第に億劫になり、授業での本来の元気も失われ、HRの生徒に対する積極的な言葉かけも極端に減っていった。昼の弁当も半分くらいしか食べれない状態が続いた。
学年集会での、旅行の写真隊形がなかなか決まらず、生徒達のわがままぶりにも閉口してしまった。いや、それに対してやり返す気力が出てこなかったのだ。文化祭のワンマンショーで生徒に伝えようとしたメッセージ(けじめ)が、生徒に十分伝わっていないというもどかしさ。自分よりずっと若い担任の方が、てきぱきと動くのを見るにつけても、自分の不甲斐なさを感じた。
朝、起床すると直ちに、又、通勤前のトイレの中でも、授業の合間でも、色々先々のことに対する不安感や自信喪失感が常に頭の中を回り続けていた(出来るだけ、忘年会のことは考えまいとしていたが、どうしてもそのことが旅行とセットで思い起こされる-幹事長代行の5文字は実にあの頃の私には重く感じられていた)。
第4回
休日の時も横になることばかりを欲していた。以前は、次々とやりたいことが浮かび時間が足りなくて困ったものだが、正直、何から手をつけていいのか全く分からない状態であった。「明日も何とかなるさ」と眠ってしまい(いつもは夜中2~3時まで起きて活動していたものだが)、翌朝、目覚めた時の、罪悪感や自分に対する絶望感に毎日苛まれながら何とか通勤していた。
丁度その頃、クラスの生徒が突然、不登校となった。しかも、全く特殊なケースで、本人から、学校での友達との疎外感を訴えられた母は、その状況をもうこれ以上本人に思い出せたくないと、担任・学年主任と、本人との接触を頑なに拒み続け、母との電話連絡でしか指導の手立てを失い、途方に暮れていた。教職に就いてから、このように本人との話し合いまで拒否されたのは全く初めての体験であり、明らかに学校への不信感を抱いている様子が手に取れた。
私自身も、今は、本人の気持ちの変化を待つことしか出来なかった。既にゆったりとした柔軟な思考力を失っていた私には、このことがさらにこたえた。学校への不振とは、つまり担任への不信であると思い込んだ。この過程で、周囲の友人達との話で、ある教科の先生からの暴言が原因だったことは分かったが、学校という組織の中では、なかなかその解決は困難が伴った。
その頃、部の顧問の先生には、うつ状態であることを話し、旅行前の準備で放課後の練習を免除してもらっていたが、ある日、とうとう止むにやまれず保健室の先生に、「自分には、もう教師の資格がないのでは」と日頃の気持ちを打ち明けてみた。
「更年期もあるのではないか。旅行前に、思い切って専門家の診察を受けた方が良いのではいいのでは。後になればなるほど大変だよ」というアドバイスを受けた。診察を受けることだけで、教師生命を絶たれるのではという恐怖感から、「まだ、大丈夫だ」と自分を偽り続け、何をするのも億劫で、口数がめっきり減り、体が動かず、いつも頭の中は、ぼーとしていて何をやっても集中することが出来なかった。
もしかすると、自分は「躁うつ病」なのではという不安感や無力感(動かないのだから、周囲の動きへの反応で、自分の存在を確かめられない)や、自分だけ一人、周囲から取り残されてゆく孤立感に苛まれていた。「どうせ、最後は自殺してしまうのだから」という自分なりの勝手な理屈をつけて、当然、注意しなければならない場面に遭遇しても、大きな声で生徒の行動を叱ることが出来なかった。もう、どうでもいい。
12月初めの修学旅行も、これほど言いしれない自分に対する不安感を持って臨んだ経験は初めてであった。旅行中の各担任と生徒達は実に楽しげで、コミュニケーションがよくとれていたように思った。私は相変わらず旅行に行ってからも、心から楽しめず、HRの生徒から「MORIYAN、疲れてるみたい。頑張って」と激励されっぱなしだった。大阪城で「だいじょうぶだ石」を購入。
第5回
しかし、それから、たった1週間後には、薬の一時的な効果が出始め、自分でこうした危機的な状況を打開しようという気持ちになっていた。前に買って一度読んだことのある本を本棚から引っ張り出し、次々と読み直してみた。2月前半の三連休(2月10日~12日)、これが本当に気分転換に役立った。2月11日、青森で今別高校時代の懐かしいかつての同僚達と飲みとても楽しかった。本当に久しぶりに心から笑うことができた。
それは、実に劇的な変化と言って良かった。自殺念慮で苦しんでからたった一週間後には「あんなことで、自分一人で鬱々と思い悩んでいたこと」が突如、馬鹿らしく思えてきたのだ。
程なく私は、この「うつ状態から脱した経過」を、以下のような一文にまとめていた。
①心が病気なる人は、完全主義者に多い。100%を要求しようとしてそれに届かず、自分を責めてしまう。要求を80%くらいにして「こんな所か」と満足する。それが、心を健康に保つ特効薬と言える。「足を知る」ことが大事。これを読んだ時、思わず「これだ」と思った。これを見た時、一瞬にして私の体の余分な力が全て抜けたように感じた。
②明日のことを思い悩むよりも(これは、思考の迷路で精神的な疲労感を蓄積するだけで何も生み出さない)、今、出来ることを1つ1つやっていく。小さな成功の積み重ねが、自信の回復につながってゆく。あの頃、私は、三学期早々の「進学説明会」の企画・準備や、「同僚の還暦を祝う会」(司会)の成功で、次第に自信を取り戻しつつあった。
③不安感に襲われやすい人は、依存心が強く自分に執着し、周囲の評価を気にする人でもある。勇気を出して困難にぶつかる勇気を持つ。逃げることばかり考えると、ますます不安感にとらわれる。
確かに、この間の私は、「もりやんは、仕事が出来る」という周囲の期待に応えようと、気がつかないうちにどこかで無理を「心」と「体」に強いてきた。学年の仕事にしても部活にしても、気がついてみると、自分の限界をはるかに超え、私にとって最も重要なHR経営が疎かになっていた。
④「あ、又、来たな」という感情は、自然に過ぎ去ってゆくものだと割り切る。何より焦らないことが肝心。「うつの状態」は、「心の風邪」とでもいうべきもので誰もがなり得る。
⑤「心」と「体」のバランスをとる。どちらか一方が崩れると、その影響は他方へ、そして又、他方へと悪循環を繰り返し、迷いを深めてゆく。「心」と「体」に十分な休養を与える。最初はつらくとも、ともかく「体」を動かし汗を流す。部屋の整理や、目前の仕事とは全く関係のない自分の好きなことに打ち込むなどの「気分転換」を行う。
⑥「大丈夫だ。心配するな。何とかなるさ。」「所詮、物事はなるようにしかならない」「Let It Be」。
40代、それは仕事の上では、20~30代の時のように、単純に自分のHRや部活だけやっていればいいのではなく、当然、学年や学校全体の重い仕事を任せられる。家庭的にも、子供もそれなりに成長し小さかった時のように簡単にいかなくなる。私のように両親と同居している場合は、さらに複雑化する。
第6回
2004年、4月から復帰。念願の1学年担任となったが、ほどなく気持ちが急激に落ち込み、又、病気休暇をとった。
しかし、今、2003年から2004年までの1年間、自分の気分の変調を数えてみると、復帰の失敗によるうつ状態が4回。ところが、その後1ヶ月の短期間で冷静な自分を取り戻していた。たった1年でこれ程多くのうつ状態になったのは初めてであった。当時は、ひたすらその原因を自分に求め、自分自身をコントロールする力を取り戻そうと必死になっていたが、果たしてそれだけであったろうか?
実は、心療内科の「抗うつ薬」から、大学病院でのリーマス中心とした精神病薬にこそ、真の原因があったのではないか?果たして、私は、長期にわたって精神病薬を飲まなければならなかった程の、重度の「双極性感情障害」(躁うつ病)だったのか?
2004年、教頭先生からの電話で津軽伝承工芸館へドライブ。その際、ソフトクリームを食べながら「病気休暇をあと二ヶ月延長してくれないか」という提案をされ、思わず承知してしまった。今から、考えれば、昨年の夏のように無理に復帰して又同じ失敗を繰り返すよりは、時間をかけじっくり病気を治す方を優先されたのだと思うが、当時は、正直、本意ではなかった。しかし、受けざるを得ない。
判で押したような単調な家での生活が続く。いつも通り起き、トイレカバーの交換、亀の水替え、掃除機の上げ下ろし、母の通院の送り迎え、午前中は、庭の縁側のソファに座り読書(藤沢周平・池波正太郎など)、昼食後の昼寝、読書、洗濯物の取り込み、風呂掃除、週末の買い物、あの頃、毎晩9時か10時までには就寝していた。来客や電話の対応に困り、徐々に社会から隔絶されていく自分がそこにいた。誰かと無性に話がしたい。
大学病院、心療内科から夏休み中からリハビリを兼ねて学校に出勤してみた方がいいといわれ、8月9日から、1週間に2~3回程度(せいぜい、30分~1時間)出勤した。何とも言えない違和感。校舎の窓から誰もいないテニスコートをじっと眺め、校舎内をとにかく歩き回ったり、図書館で廃棄処分すべき書物のお手伝いなどもした。何人かの同僚から「お!」と呼びかけられ嬉しかった。文化祭で「MORIYAN」と生徒から声をかけられても、つい気後れしてしまう自分。復帰が現実問題となったのは9月24日に教頭先生と二人で主治医と接見してからだった。診断書には「十分、復帰が可能である。」と記され、10月20日からの復帰となった。その直後辺りから、「もしも、今度も復帰に失敗したらもう辞めるしかない」という強い不安感に苛まれた。復帰の準備として10月12日~14日、授業をやってみた。自分でもくどいほど教材研究を繰り返し、最後の授業で、ようやくかつての手応えを感じた。「そうか、リラックスしていさえすればいいのか」
第7回
4月16日、新しい校長・教頭が揃って自宅を訪問。「忘れられていない」と正直、ほっとする。5月14日から2006年の3月末まで、ついに初めての休職をとることになった。約1ヶ月のうつ状態を経て、5月から少し上向き。
この頃から、自分で自分の考え方の歪みを矯正する「認知療法」にもとりかかってみた。当時の日記には、必死に、自分を立て直そうともがき苦しんでいた自分がいた。
「この病気は脳の疾患。結核では、3年の病気休暇が認められているではないか。それと同様に考える。レースを降りる。走りから、歩く。先頭を走らない人生だって満更でない。日本一の高校教師にならなくても、普通の教師で十分。どうせ、悩むなら建設的なことで悩もう。何事もいい方にいい方に考える。長いスパンで考える。何一つ、無駄になるものはない。元々、この病気は完治するわけではない。付き合う。薬と休養しかない。」
「弱い自分、困難から逃げ出してばかりいる自分、休職となっている自分、まさかこの自分が、何でこういう病気にならなければならないのかという疑問。でも、それらは、どれもが現実でどうあがいてみてもごまかせないのだ。だとすればありのままに現実に向き合い、病気を克服していくしかない。溺れそうになって、必死に手足をばたつかせず、全身の力を抜けば・・・」
「自分の要求水準が高く、かつ完璧主義。向上心が強く現状に常に満足せず、さらなる成功を体験を求めてついつい頑張り過ぎてきた。日本一の高校教師。誰もがやらなかったことをやり、その成果を常に多くの人に公開し役立ててもらうことに意味を見出してきた。」
「仕事も研究も趣味も、自分で最後まで納得出来るまでしないと気が済まない。もっと、ゆっくり時間をかけて、こつこつやる方が、達成感や充実感は深いのかも知れない。不義密通関係の研究がある程度形になったら、本の形で世に送り出したい。「輝き授業を目指す会」は、毎年という形ではなく、複製にして頒布できる実物がたまったらやればいい。HPも、1ヶ月に数回程度の更新で十分。何れにしてもmustは考えない。定年後は、講師でもやりながら、講演・執筆なんかやれたらいい。「日本史もの教材博物館」は、現にある小屋を改造した程度にし、HPにミュージアムショップを開店し、期間限定で頒布普及活動が出来る・・・」
「過去の自分には戻れない。その走りは無理。新しい自分。元の50%~60%の自分を認める。」
当時、「朝日新聞」に次のような記事が掲載された。「医師が、間者の利益を考えて『うつ状態』と診断書に。リハビリ出勤は大半の企業では実施せず。抗うつ薬を飲んでいる社員は復職できず。」と。
「自分は、つくづく恵まれていると思う。一般企業だったらもうとっくにリストラだ。この病気は外見上は、健常者と違わないことから、外出する場合でも、非常に周囲の目を意識しなければならないという面がある。「何だ、どこも悪そうに見えないのに、何で今頃、あそこにいるんだ?」結果的に、夕方の買い物、日中の散歩以外、何も出来ない。
誰かといっぱい話をしたい。もっと外出したいという要求を汲み上げてくれる機関、サークルが近くにないのが非常に問題だと思う。自宅での個人の療養、職場でのリハビリの中間に、同じ病気の患者会があってもいいのでは。」
第8回
2005年7月初めから約3週間のうつ状態に。その間、大学病院から、落ち込みの周期が短いことから、それまでのリーマスに加えデパゲンが加えられた。それから2週間後に、頭が異常に興奮し眠れず。以前から、抗うつ薬を飲むと2週間で気分は短期間で上向きになっていた。明らかに薬害であった。
・・やる気が出なくなるのは、自分の考えや感情を変えようとしないから・・
・・自分は駄目だ。又、失敗したらどうしよう-自動思考・・
・・不安をなくす最善策は、「今、この時」を考えること・・
・・過去の失敗は時効である・・
・・何かをやるうちに、やる気が出てくる・・
・・頭が動かないのであれば、体を動かす・・
・・元の自分ではなく、新しい自分のイメージで。6割で十分・・
・・いい時も、悪い時も長くは続かない(松下幸之助)・・
「このままでは終われない、という考えが頭の中で渦巻く。この野郎!こん畜生!という反発心が心の奥底から出て来たことが嬉しい。来年、4月からの復帰でなければ家族4人生活が出来ない。のたうち回っても、這いつくばっても必ず復帰し、復帰の新記録を樹立してやる」
あの頃、地元の知り合いの住職に、思いあまって「復帰への不安」を打ち明けてみた。
「未来も、過去も存在せず。あるのは、この今だから、今をともかく一生懸命に」「万が一駄目だったら、博物館・喫茶店を思い切ってやってみては?」「相談に来る前に、もう吹っ切れているね」「肩の力を抜いて、なるようにしかならない」「未来は、まだ来ない今日」と、ありがたいお言葉を頂戴した。
第9回
向精神薬の「薬害」の知識を全く持たなかった、当時の私は、気分の変調を、薬が深く効いていなかったことにその原因を求め、ひたすら自分自身をコントロール出来ない自分の不備を責め続けた。本格的に病気休暇をとった2003年から、ネットや100冊にも及ぶ膨大な「うつ病」に関する本を次々と買い込んでは読破し、要点をノートに書き記していった。当時は、「うつ病は心の風邪」というキャンペーンが張られ、「うつ病のチェックリスト」や「心療内科」がようやく注目されるようになってはいたが、「躁うつ病」に関する本はほとんどなかった。いわんや、「精神病薬の薬害」に関する本など皆無であった。
大学病院での診察で、主治医に「同一の病気で、現場に復帰された先生方と、今の私との違いは?」と聞くと、即座に「慎重さ」と答えた。さらに、急速に「躁」と「うつ」を繰り返すようになった状態を危惧し、「検査入院は、来年3月の復職審査に不利になるのか?管理職に聞いて置いて下さい」と。
この頃、明らかに自分が軽躁状態であることは、誰に言われなくても十分自覚していた。早朝散歩で、サックスを川原で吹き始め、銀行、郵便局、図書館で用を足し、書見の時間が急速に増え、喫煙量も増えた。主治医、家族からもいつも言われていたのは次の言葉であった。
「軽躁が続けば、必ず落ち込む。」と。だから、「小出しに、大人しく、余分なことをせずに、落ち着いて・・。」
その都度、自分の行動の不備を責め、自重するようにしていた。
しかし、確かに、多弁・多動・大量の本の処分と購入など、うつ状態から急速な「躁転」を何度も繰り返したが、今から思えば、果たして病気だけがその原因であったのかどうか、大きな疑問がわく。既に私は、精神病薬による薬害、「医原病」になっていたのかも知れない。直接的には、前年11月からの抗うつ薬(トレドミン25mg毎日3錠)による薬害もあったのではないか?そもそも、「双極性感情障害Ⅱ型」は、「精神病薬の薬害による病気」なのだから・・・。
第10回
200年12月9日(金)「ほぼ1年ぶりに登校。校長、教頭、同僚の暖かい対応に感謝。出校の回数が増えるにつれ、授業や復職への不安が徐々に消えていった。ゆっくり時間をかければ、必ず元の勘を取り戻せる」
当時、読んでいた『うつになった精神科医の処方箋』から。
・・いつも、軽いうつで。飽きもせず職場に通い、最低限の仕事をこなす。・・
「良い教師、良い授業を目指さない。物事を相対的に見る。責任感、熱中、完璧、協調性→いい加減、その日暮らし、非真面目、ほどほど・・・何よりも、何とかしてみせる、何とかなるという勇気を持つこと。一気に加速してしまわないように、ゆっくり、ゆっくり」
12月26日(月)大学病院で受診。「主治医から、事前に準備をし、本番直前に疲れてしまうタイプ。リーマスの血中濃度は丁度良い。あとは心の問題・・気分や感情に振り回されないためには、とりあえず動きながら考えて悲観的な観念が入り込まないように頭を空にする。少し状態が良くなりかけると、一気に回転が上がり軽躁へ。うつになった時の苦しさを思い出す。軽躁は必ずうつへ。爽快な気分は、決して長続きしないことは、ここ数年の自分を振り返れば分かる。私の場合は、常に軽いうつを自分のレベルに置くことが大事」
今思えば、約3~4ヶ月の調子の良い時期、そして約1ヶ月のうつ状態を、判で押したように規則的に繰り返していた。勿論、「躁転」も。もしも、これが精神病薬の薬害による医原病だとすれば、薬物治療・3分間治療がどこでも見られた当時の(現在もほとんど変わらない)精神科医療そのものに大きな原因があった。主治医が「心の問題だ」と言ったとすれば、なぜ、精神科医自らが、あるいは臨床心理士やカウンセラーを併置して治療に当たらなかったのだろうか?
第11回ー2006年
「過去、何度もの落ち込みの原因は、本当に復職できるのか、病気は治るのか、家族の生活をどうするのかという大きく強い不安感にあった。又、周囲の期待に応えようという意識が強すぎ、自分に無理をし続けてきた。自分の仕事に対するとらわれが強すぎたのかも知れない。別に周囲から期待されなくても生きていける。良い教師、良い授業、良い仕事でなくても十分。平凡な日々、今までどちらかと言えば、それを忌避してきたが、それこそが、余裕のある心を生み出す土壌なのだと思う。普通で良いのだ。」
復職審査に備え、クレペリン検査用紙、YG性格検査を取り寄せ、正直、「何でこんなことをやらなければならないのか」と自問しながら、自宅で、毎日のように練習を繰り返した。「審査は復職への、ある意味では通過儀礼。いつものままの自然体で臨めば必ずクリアーできる。いや、クリアーしてみせる。教頭から、現任校でのリハビリの1年の勤務が指示された。一瞬、あれっと思ったが、気心の知れている同僚が多い中での復職が良いのかも知れない。」
2月27日(月)
「昨晩、Nスペ-矢沢永吉-を視る。彼の言葉が印象的。ファンのためにやっているんじゃない。自分が楽しくなるためにやっている。倒れて2年、5年、死ぬまで・・NO!倒れた自分に、このいくそったれ!って言うために立ち上がってきた」
3月28日。復職審査。その少し前から5月連休明けまで、軽いうつ状態に(約1ヶ月間)。
それは、決して忘れられない光景だった。指定された時刻に指定されたホテルの控え室。校種を問わず教職員や事務員が家族を含めて約10名。誰も一言も言わない。張り詰めた空間で、私と同じ教科の高校教師が、突然、「こんな経験は誰もが出来るようなものではない」とぼそり。場が一瞬、和んだ。その一言で、小学校教師の母がお茶を入れ始めた。
審査は、午前10時からクレペリン検査、性格検査、それから2名の精神科医と、本人、家族(家族)、校長が二度ずつ面談という形で行われた。
自宅に帰って、しばらくすると午後5時頃、校長から電話で「良かったね。復職が認められましたよ」との連絡が入った。一応は、安心したが、「なんで、こんな検査を受けなければならないのか」という屈辱感を味わった。もう二度とこんな検査を受けたくない」
第12回
2007年3月19日(月)
「地元の普通高校を希望していたが、近くの農業高校の転勤が内々示される。妻が心配するほどショックはない。通信制・定時制に較べれば、農業高校とはいえ幸せと思う。自分の思い通りの面白い授業が出来るかも知れない」
あの時、校長が内々示を伝える時、次のように言ったことをはっきりと覚えている。「今年、転勤となる先生方の中で、あなたが一番、悪い学校になってしまった。済まない」と。同じ教科の同僚2名から、廊下で「あそこで、大丈夫か?」と心配をされる。「心機一転、新しい環境ならどこでもやれるよ」と答えた。ずいぶん前の話になるが、同校では生徒達が集団で校舎の窓ガラスを壊し警察の力で収束させたこともあった。
今から思えば、明らかに、長期にわたる休暇・休職により「高校教師」としての商品価値は落ちていたのだ。この時は、いまだ、新任校で、専門の「日本史」が、前年、選択教科からも外されなくなっていたことを知らなかった。
3月28日(水)
「新任者打合せ。やはり日本史はなかった。課題研究(普通教科の教師が、農業教科の自由研究を担当する)をどうするか?新一年生担任(2クラス)、一学年主任 、生徒指導部副主任、その他教科主任、芸術教室責任者、生活指導委員会・・・めまいしそう。」
4月6日(金)
初めての生徒(2・3年生)との対面。隊形が乱れ、後ろ、横を見ての私語が目立つ。集会の体を全くなさず。新任式の挨拶を終え、降壇してから、余りにもその状態がひどく、見るに見かねて列の横から入って注意。教員の誰もが、大声で注意もしない。長い教職経験でこんなのは初めて。新任早々、「これは、想像以上にひどい学校に来てしまった」と思う。
慌ただしく入学式、新学期のスタート。先輩の同僚から、昨年度の学年のフロッピーを借り出し、仕事の内容と流れを学習。「何とか、新しい学校に早く慣れ、職責を十分果たさなければ」
第12回
2007年6月6日(水)
大学病院で受診(この頃、1時間の時休をもらって放課後に診察)。主治医から「かなり良くなっている。」と。「駄目になったら、何も考えずに元気が出てくるまで待った方が良い。そのうち、自分でコントロール出来るようになる」
それからたった2週間目。突然、「何もかも嫌になり」又、突然、学校に行けなくなってしまった。9月後半まで3ヶ月の病気休暇をとった。
ところが、病気休暇の手続きから3日目の日記に、「なぜ、又、その日の朝、強い不安感に襲われ急に学校へ行けなくなったのか?」を客観的に記していた。
6月29日(金)
「責任感が強く人に仕事を任せられない。周囲からの評価を気にする。同年齢の相談相手(同僚)が少ない。多くのことを背負いすぎて優先順位が分からなくなり、毎日、嫌だ、出来ない、大変だとその想いに押しつぶされてしまい、逃げ出したくなってしまう。先のことを心配しすぎる。今の仕事に手がつかず。焦り、空回り、不安の増大→今、出来ることをやる。柔軟性がなく環境や順序や変わると壊れてしまう。柔軟性がないのは、自分は仕事が出来るんだ、自分がしなければならないという、こだわりや執着が強いから」
「3年間のブランク、1年の優遇勤務。転勤による初めての実業高校。入学式からの短期間の強烈で大きな、仕事や人間関係のストレス負荷に耐えきれなかった。6年ぶりの担任。小規模高校であるがゆえの、3倍くらいの仕事量。ともかく、仕事をきちっとこなそうとする意識が余りに強かった。諸々のストレスと「適応障害」・・・。
しかし、その翌日から、「不義密通関係」の資料の抜き書きを始めていた。
7月2日(日)
「なぜ、急に気分が下降してしまったのか?自分でも明確な理由は分からない。一体、俺はどうなってしまったのだろうか?常に走り続けていなければいけないという思いが強い。何度同じことを繰り返せば気が済むんだという自責や絶望感は、病気休暇を取ってからの一週間に集中し、常に再発予防法のことだけ頭をよぎる。もう、格好悪くても良い。今は、又、立ち上がるための長い夏休みなのかも知れない」
7月4日(水)
大学病院で受診。「主治医から。新しい学校で三ヶ月しか持たなかったのは、能力の低下ではなく、ストレス耐性によるもの。それ以前の長期の休みがなかったら、こうはならなかったのかも知れない。約10日間で軽躁(?)になったのは、職場のストレスがなくなったから。復職の際には、今より仕事量を減らしてもらうように管理職にお願いする必要がある。又、休んでしまったらどうしようなどと考えない。再発を防ぐには、薬と考え方を変える。再発の回数が多くなる程、再発率は高くなる。気分転換は、どん底に落ちてしまう前に、普段からのリラクゼーションが必要。落ち込んだパターンを整理し、自分の性格を含め、どうすれば落ち込まないか、教訓風にまとめ、いつもそれを見る。」
7月12日(木)
「もう、ずたずたに引き裂かれたプライド。退職後にはこうした静かな研究生活が待っているかも知れない。実物の博物館を開きたい。悪いのは自分ではなく病気なのだ」
7月21日(土)
「夜、NHKのうつ特集を見る。病気から復帰してからパート勤務している人が、『休まず働くだけで精一杯』という言葉が印象的だった。ソフトランデイングの大切さ。こうして、ゆっくり休養できることに、又、今の自分を支えてくれていおる人に感謝」
第13回ー2008年9月ー
当時、直後にまとめたレジュメには次のようにある。
「現在の自分の、数ヶ月先の体調をある程度、予測し得ないという強い不安がある。主任、担任、修学旅行などの恒常的な責任を伴う職務には就かせられないというのが、管理職側からの常識的な措置であり、それが自分のためにはベストだろう。
しかし、担任にもなれず、又、修学旅行の引率からも外されるという現実は正直、泣きたいくらいに辛いことだ。本当に悔しいが、現在の状態では仕方がない。もう少し、状態が安定したら、又、そうした機会に巡り会うことも必ずあると信じていこう。2003年から2005年までの、病気休暇、復職、休職、復職審査という長く辛い時期を考えれば、だいぶ軽いうちにそれも短期間で(ほぼ1ヶ月)でうつ状態から回復できるようになったと思える。
その後の躁転も含めて。恐らく、主治医が言ったようにこの病気は生涯完全に治りきることはないだろう。よくて良い状態が長持ちする寛解しかないのだ。病気や病気になってしまった自分をありのままに認め、気長に付き合うことしか出来ないのだ。落ち込まないために、頑張りすぎない、仕事を抱え込まないというのはもう十分分かるが、ついついやって来てしまったのも事実。いかに自分をコントロールするか、仕事を分散するか、人に依頼するかがポイント。周囲からの評価や信頼を失っても、もう恐いものは何もない」
現実の受容という側面があった反面、もう、この頃、精神安定薬・向精神薬の長期服用による薬害(医原病)で、気分の変調は体にすり込まれてしまっていたのかも知れない。心療内科での向精神薬の投与から既に5年目を迎えていた。
第14回
2008年10月22日(水)教頭と大学病院で受診。3ヶ月の病気休暇。
その直後の日記には、冷静にその原因を整理していた。
「10月に入ってから気分が落ち気味。頭が回らない。やる気が出ない。研究の疲労。そこへ文化祭の仕事。主任でもないのに 諸準備を考え過ぎ、仕事の優先順位が不明確。役割分担の不明確さ。焦り。いつものパターン。」
今、思えば、仕事のストレスによる「適応障害」の繰り返し。しかし、ストレスへの耐性の弱体化をもたらしものこそ、長期にわたる向精神薬による「薬害」であったのだ。
-「うつを治す」野村裕-
1. リチウム(リーマス)は「抑うつ」の予防にも効果的。
2. 一つの考えにこだわっていないか。
3. 「自動思考」に反論-A. 根拠はどこにあるのか。
B. だから、どうなる。
C. 別の考え方が出来ないか。
4. うつ病~楽しい時間を作り出すこと、そのものが治療。
5. 「荷下ろしうつ病」。アイデンテイテーを失い気分が沈む。
今、思えば、野村裕は、日本うつ病学会理事長で、リチウム(リーマス)は、「抑うつ」の予防にも効果があるという主張だけでなく、「抗うつ薬には副作用はなく安全である」とまで主張しているが、全くのでたらめである。長期服用によるリチウム中毒、精神科医の乱処方による向精神薬の「薬害」が明らかになっている現状から考えれば、全くの詐欺的な発言である。彼は、製薬会社から380万円もの資金供与を受けているのである。「荷下ろしうつ病」等という全く聞き慣れない新しい病名まで勝手に設定するに至っては、事ここに至れりというしかない。
-「心配性と上手につきあう方法」-
1. 一気に解決しない。
2. 逃げ出してしまった自分を責めない。
3. どこに問題があったのか、次ぎにどうすればいいのか。
4. 不安は、脳内の行きすぎた作業→何か好きなことを、頭を違う方に使う。
5. 不安なのは自分だけではない。
6. マイナス思考→成し遂げたことを整理。
7. 完全主義、100点主義は、不安の裏返し。
-「小さいことにくよくよするな」-
1. 不安は、将来起こることになるかも知れないことに、くよくよすることで生まれる。不安を宥める最善策は、「今、この時を考える」。
2. 不安や悩みの多くは、「次は、何だ」と、たえずめまぐるしく考え続けることから生まれる。「何もせず、ぼーとする。頭を空っぽにしてリラックス。」
3. いい気分はありがたく思い、暗い気分の時は優雅にやり過ごす。余り、真剣に受け止めず、「これも今に消える。」と自分に言い聞かせ続ける。不安は、いつか、必ず消える。
4. 落ち込んでも、慌てず落ち着いて、時間を区切って一つのことだけに集中してやる。次第に興味が出てくる。
5. 自分は完璧じゃないかも知れないが、このままでいいんだよ。
第15回
所が、その翌日から、急に元気が良くなり、高校総合体育大会の行進に参加した。うつ状態からの躁転。夜眠れないといういつものパターンを繰り返す。
6月8日(月)
「躁」にも「うつ」にも効くエビリファイの影響か、急な躁転は見られず。
6月24日(水)
「大学で受診。顔面左側が引きつるのは薬のせいではないかと質問。エビリファイを半減(3mmg)。」
7月初め~8月末。この間、何もやる気が起きず、学校でも読書熱や整理熱がなく、時間が過ぎるのが非常に長く感じた。帰宅して夕方までの2時間の睡眠。この頃、毎日合計11時間の過眠であった。週末でも、日記をつける意欲がわかず、ただ横になりたくて金魚の水替えもという状態であった。夏休み期間中とは言え、学校は重い気分を引きずって休むことなく出校した。この間、エビリファイを12mgに増量し、その他の薬の処方も若干変え、二週間後にようやく元気が出てき始めた。「いっそのこと、こんな頭をそっくり付け替えたい。」
10月初め~11月13日(金)がくんとうつ状態に。
2010年1月18日(月)~3月1日(月)がくんとうつ状態に。
4月7日(木)
「教頭来宅。今年1年休職として来年、勧奨退職の提案。もうこれ以上の迷惑をかけれず。気力がない。以前から、病気休暇は取らないつもりとは言え、退職の決断の重さに我ながらショック。1年かけて覚悟を決めよう」
第16回ー2011年3月、退職。そして東日本大震災。
5月25日(水)
大学病院から地元の精神病院へ入院を紹介(~6月27日(月)まで。1ヶ月間。途中、父死去により実質3週間入院)
大学病院からの精神病院への紹介状には、次のように書かれていた。
「診断 双極性障害Ⅰ型
上記診断で当院通院中でしたが、3月-4月は、抑うつ気分・意欲低下の症状が目立っておりましたが、5月15日より爽快気分・高揚気分・誇大的言動・活動性亢進・睡眠の減少の症状と共に・・本時受診時には、上記明らかに躁状態に加え、自責感・抑うつ気分・希死念慮の症状も混ざった混合状態にあると思われます。貴院での入院加療をお願いします」
私が大学病院で通院を開始したときの診断名は元々、作られた病気(躁うつ病もどき)「双極性障害Ⅱ型」であったはずなのに、いつの間にやら「Ⅰ型」にされてしまっていた。入院への辻褄を合わせるためか?
9年にもわたる向精神薬の薬害で、病名をワンランク重くされ、入院へ。彼らは、一体、何のために治療しているのだろうか?薬害についての知識はないのか?うつや病や双極性障害は再発率が高いことの原因を究明しようともしないのか?全ての責任を患者個々の遺伝や環境・性格に帰して自ら少しでも反省しようともしないのか?
今の知識からすれば、「うつ状態」から「双極性障害Ⅱ型」への診断のし直し自体が、明らかな誤診(過剰診断)であり、本来、飲まなくともよい向精神薬を処方され(最高で1日5~6種類、20錠)、本物の「双極性障害Ⅰ型」のような状態にされてしまったのである。明らかな「医原病」であった。
第17回
施錠された個室の淋しさは例えようがなかった。「なぜ、鍵をかけるのだろう?狂暴な行為に及んだり、脱走を試みようと思われているのだろうか?」カーテンの全くない部屋、天井には監視カメラ、1時間毎の見廻り・・プライバシーや人権が全くない世界。ベージュ色の壁には、無数の下品な落書き。
例外的に差し入れられた作詞・作曲用の本と、ノートと筆記用具。
その大学ノートには、次のようなものが所狭しと小さな字でびっしり埋められていた。
「身体・行動の自由を全く無視した医療行為は、自由権などの基本的人権をうたっている日本国憲法への挑戦であり、明らかな憲法違反行為ではないか。本人の受けた精神的・肉体的苦痛は、決して浅いものではなく、以後の病状の回復にさえ大きく影響した。」
「バンドの構成・楽曲・衣装、将来の構想・・バンドによる被災地・学校・病院・老人ホーム・刑務所での慰問。音楽を通しての明日への元気や勇気。癒しや絆を。NPO・県教育委員会・県社会福祉協議会・・」
幕末に材を取った歴史小説の8割方は、たった1週間で書き上げた。しかし、それは、明らかに、事前の丁寧な説明もなしに、非人間的な処遇を受けた事への抵抗であったと思う。2週間の個室生活(その途中、父が入院先で亡くなり実質的には1週間)の間、主治医は、窓越しにちょっと私の状態を見るだけでたった一度の面談もなかった。一体、なぜなのだろう?外見だけでしか判断できないのだろうか?」
第18回ー2011年
6月12日(日)
父、永眠。午前4時40分。自然に心臓が停止していたという。誰にも看取られずに逝ってしまった。私が入院などしていなかったら、毎日、ずっと側についていれたのに。最後の最後まで親不孝をしてしまった。
父の葬儀を終え、病院に戻ると個室から4人部屋へ移動となった。タバコも携帯も、就寝時間も全て自由。特に、喫煙室で、多くの友人が出来た。明らかに口数が多く聞いているだけで少し疲れる女の子もいたが、あとは、話をじっくりしてみると「何でこの人は入院までしているのだろう?」と思えるほどごく普通の人達だった。
うつ病・アルコール中毒・リストカット常習者・電気ショックの短期入院者等々。私たちは1階の入院部屋だったが、2階からは、突然、どすんどすんというものすごい音が聞こえてきた。重篤な患者の入院室だった。日中は、食堂で卓球や将棋、中庭でみんなを誘ってバドミントンを楽しんだ。少し、疲れるとベッドでウオークマンで好きな歌謡曲をよく聴いた。確かに、まだ、軽躁状態だったが、元々、活動的で面倒見のいい私はいつのまにやらみんなから好かれていたと思う。
余りに簡単で幼稚な知能検査。「躁うつ病を越えて」「時空を越えて」(歴史小説)の2冊を著したいという話を聞いて、「本当に珍しい。典型的な躁うつ病(双極性感情障害)だ」と、小躍りせんばかりに喜ぶ中央からやって来た高齢の精神科医。
看護士の多くは男性。どの看護士も優しく接してくれたが、中にはこんな光景もあった。車いすの認知症の老人が5人ほどいた。なかなかスプーンで運んだ食べ物を口に入れてもらえず、腹が立ったのか「おめえ、頭からこれをかぶせてやるがらな。早く、食べなが」と暴言を吐く看護士。しかも、誰もそれを制止しようともしない。明らかに、人権を無視、いや冒涜する行為だった。精神科医も含め、看護士の中には、精神病者と見下している者もいた。自分の誤った主観(誤診・過剰診断)で病名をつけ薬漬けにし、ますます本人を苦境に陥れ、なおかつ「絶対、治らない病気」と洗脳し続けているのである。入院中に、他の患者の薬と間違えて処方した精神科医もいた。
喫煙室で、「もりやんは、こんな所にいる人ではない。私たちと違う。ここでの見聞がきっと将来の著作に役立つ」と。
第19回 2011年~2012年
7月2日、飛行機で上京。好きな神田の古本屋を周り目的地の法政大学へ。「恩師を偲ぶ会」では、大学時代の友人数人と再会し、教え子代表として挨拶をした。ホテルに帰り、甥が帰り一人になった途端から急にいつもの強い不安感や疲労感に襲われた。以後、約2ヶ月間のうつ状態に陥ってしまった。
1年前から呼びかけ、自ら幹事長として開催した楽しいはずの高校の同窓会。約25名の参加であったが、心が沈みっぱなしで、二次会の終了間際、ぷいっと帰宅してしまった。
9月に予定し、新聞で告知されていたバンドのライブの中止を連絡。そしてそのことが、他の事柄と共に深い後悔の種になっていった。「なぜ、いつも自分は、先走ってしまうのだろう?」「なぜ、この周期に襲われるのだろう?」「これでは、これからも色々な計画しても何も出来ない」思考はいつも通り、堂々めぐりをしていた。
9月初め、ようやく時代小説を読めるようになっていた。佐伯泰英ものにはまる。
12月初め、偲ぶ会で知り合いになった法政大学の教授の下に送った「近世女性の罪と罰」の原稿が、同成社社長にわたり、「これは面白い」と、出版の話がとんとん拍子に決まった。三校をしていた2012年1月は、再びうつ状態に。重い気持ちを引きずりながら何とか校正を終え、自身、2冊目となる出版にこぎ着けた(5月全国出版)。
2012年、主治医が変わる。新しい向精神薬による乱処方で、躁とうつを6回も繰り返す。いわゆるラピットサイクル。主治医にそのことを尋ねると、「年齢によって、病相の現れ方が変わってくる」と。「漢方はどうなのでしょうか?」と聞くと、「僕、漢方、知らないから」「困った。森山さんに効く薬ないんだよね。じゃ、これとこれをやってみようか?」
第20回
「この病気は絶対治らない。よくて寛解(比較的安定したが長期間持続)。」「治らないとすれば社会復帰も出来なければ、仕事に就くことも出来ない」「退職金や貯金はいつまで続くのか」「年金受給の時期は?」「在宅で出来る仕事はないのだろうか?」「何か在宅の仕事をやったとしても、必ずうつがやってくれば、どうすることも出来ない」・・・「もう、どういなってもいい」「社会の役に立てれないのであれば、自分は生きてる意味がない」・・・「もう、静かに死ぬしかない」
いつのまにか、自暴自棄な自分がそこにはいた。
3月初め、眠れず、部屋であれこれ考えながら、目前に迫ったチャリテイーコンサートのためのベースの練習・部屋の書籍や楽譜の整理を行う。約35年ぶりの三日連続の徹夜。平均睡眠時間は約3時間ほど。
「自分の出来ること。しなければならないこと。したいこと。
A. 講演(教師対象・・「ドラえもんの日本史ポケット」-実物教材を用いた授業論、一般対象・・「歴史に学ぶ人間の生き方」「日本通史」、企業経営者対象・・「歴史に学ぶ経営戦略・人材育成」。
B. 執筆・・「近世女性の罪と罰-ケガレの視点から」「昭和の海軍」「その男-幕末編・明治編」「つれづれ日本史」など)
C. 自宅で出来ること・・離れの物置倉庫を改造-「ガンダーラ」(1階・多目的ホール・リンパ・相談室・喫茶コーナー、2階・個室-楽器の練習場-ベースギター・サックス・ドラムス)資金が問題。
全神経の集中と心地よい疲労感や恍惚感・・・。
それは、まさに神の啓示か。突然、ベースのこつがわかり左手が自由に動き始めた。どんな曲でも、CDを流すと勝手に左手の指が勝手に反応する。と、同時に、自分が10年間にわたって、躁うつ病に悩まされ自殺寸前まで追い込まれていった原因の答えがわき上がってきた。
実に「日本一の高校教師」。これにこだわり続けてきていたのだ。34年間、自分の全てを注ぎ込んできた。今はもう教師でも何でもない。そんなとらわれをさらっと捨ててしまおう。自分を縛りつけていたものからの開放。全ての抑圧を取り払い、思ったことを先ず口に出してみよう。行動に移してみよう。もう、我慢しなくてもいい。もう、失うものは何もないのだから。
翌朝3時頃までのベースの練習などで、いつのまにか夜の大量の服薬をしなかった。
2012年、初めて心療内科を受診してから11年後の2012年。それまで、精神科医の「この病気は一生治らない。よくて寛解」「だから、一生、向精神薬を飲み続けなければならない」という言葉を信じ、最高で1日5種類18錠もの向精神薬を飲み続けていた私に、大きな転機が2つ訪れた。
第21回ー2つの大きな転機ー
1つめは、内海聡氏の「精神科医は今日も、やりたい放題」(三五館)、「大笑い精神医学」(同)の二著との出会いであった。彼は、内科医でありながら(だから書けた)、これまでの精神医療が、いかにでたらめなものであるのかを具体的な事例を挙げながら、初めてその欺瞞性をはっきりと指摘したのである。
先ず、病気の診断も全く科学的な根拠を持たない精神科医の主観に基づくもので(うつ病にしてもあらかじめ用意されたチェクリスト9項目のうち、5つ該当すればうつ病)、その大半は誤診、過剰診断であった。「とりあえずお薬出しておきますね」から始まる、薬物治療の多くは、その後、漫然、多剤大量処方となり、副作用、依存性、離脱症状、後遺症などの薬害を増大させてきた。又、向精神薬の成分は、麻薬、覚醒剤、農薬と全く同じで、脳の中枢神経に直接作用する非常に危険な異物であった。こうした薬物治療を主体とした精神医療には、製薬会社の向精神薬の販売促進(キャンペーンー「うつは心の風邪」)が大きく作用し、これに呼応して、従来の精神病院ではない、心療内科やメンタルクリニックが全国的に急激に拡大した・・・。
今、原稿をまとめるに当たって再度、読み直してみても、精神医学に真っ向から痛烈に批判した勇気に心から敬意と拍手を送りたいと思う。
さらに、翌2013年の2つめの転機が訪れた。
2013年3月15日(金)
親戚のの紹介で仙台の2013中国人の漢方医で受診。開口一番「森山さん、あなた、たいじょうぷ。高校の先生、自己コントロール出来る。病気でも何でもない。今すぐ、薬やめなさい。そうでないと、あなた、早く認知症になってしまう」と言われた。
12年間にも及ぶ重い負荷から開放された。自分は病気(双極性障害Ⅱ型)でも何でもなかった。嬉しかった。初めて自分を本当に理解してくれる人物に巡り会えたという喜びにあふれた。
その日より私は精神科医に相談せず一気に断薬した断薬した。
第22回ー2013年、その後ー
その翌日から、【向精神薬の薬害と精神疾患者・家族への社会的な差別・偏見に反対する署名依頼】を兼ねて、次々と被災地へのチャリテーコンサートや慰問コンサートを精力的にこなした。
3月16日(土)田舎館村道の駅「弥生の里」レストラン「ジャイゴ」
30日(土) 〃
4月5日(金)弘前市「TOP10」
13日(土)黒石市「音蔵こみせん」
28日(日)田舎館村道の駅「弥生の里」
29日(月)黒石市「津軽伝承工芸館」
5月3日(金)青森市「三内丸山遺跡」
4日(土)黒石市「東公園」
5日(日)青森市「八甲田丸」
16日(木)岩手県宮古市、花輪橋仮設住宅・西ヶ丘近隣公園仮設住宅
17日(金) 〃 、藤原三丁目仮設住宅
24日(金)黒石市特別養護老人ホーム「あしたばの里」
6月2日(日)黒石市「じょんからロード駅」(心と命のコンサート)
8日(土)黒石市「黒石特別養護老人ホーム」
16日(日)黒石市特別養護老人ホーム「景楓荘」
7月23日(火)七戸町児童養護施設「美幸園」
25日(木)黒石市「すみれデイサービス」
8月 5日(月)十和田市児童養護施設「あけぼの学園」
以下は、チャリテイーコンサートと同時に行った署名運動の趣意文である。
向精神薬の「薬害」と、精神疾患者・家族への社会的な差別・偏見に反対する署名のお願い。
「うつ病」「躁うつ病」「統合失調症」「発達障害」など、現在の精神病に対する治療の大半は、「薬物療法」と「3分間治療」が現状です。
しかも、精神科医の主観に基づき、患者にマニュアルに従い勝手に病名をつけ、大量の薬の無数の組み合わせで薬漬けにし、診療報酬制度のもとで、それがそのまま、病院の収益につながっているという事実があります。
現在の精神医学会は、「心」を「脳」にだけ限定し、精神病の原因を、「セロトニン」や「ドーパミン」など「脳内の神経伝達物質の不足」に求めていますが、「なぜ、その異常が起こるのかという根本的な病因」を解明できないばかりか、麻薬・覚醒剤と同じ向精神薬の投薬治療にしがみつき、対処療法に終始し、そのほとんどが、患者・家族に、「減薬」を勧めないばかりか、「漢方」や「認知療法」「カウンセリング」などの他の治療方法を示唆することを決してしないのです。
彼らは、自らの治療の限界に気がついているはずです。なのに、「なぜ、そうした人間的な当然な配慮」をしないのでしょうか?
それは、精神医学会そのものの考え方を否定することとなり、自らの所属団体から放逐されることを恐れているからです。しかし、「自分の社会的なステータスを守ることと、一人一人の患者・家族のことを心から考えてあげること」の何れを優先すべきでしょうか?
現在、こうした精神医療の「薬害」や「人権侵害」などの被害が全世界的に相次ぎ、日本でも厚生労働省・精神医学会(病院・精神科医)・製薬会社に対して、従来の医療方法に対する反対や抗議・徹底的な調査を求める個人や団体が、全国的に結集しようという活動が展開され、その中には、アメリカのような集団訴訟や、日本での医療裁判が今年になって全国で10件起こされています。
「CCHR 市民の人権擁護の会日本支部」」に寄せられた精神医療の被害は、「薬害」に止まらず、数多くの傷害致死、強制わいせつ、詐欺、窃盗などの刑法犯で占められているのです。精神科医・心療内科医・看護師という権威と製薬会社の利権の結合・癒着からもたらされたこれらの犯罪の根底には、「精神病者」への明らかな「人権侵害」という事実があるのです。
今、直ちに、「薬害」に気づき、一方的に処方され過剰なまでの向精神薬を止めなければ、病状は一向に改善しないばかりか、退職、離婚、自殺、生活保護(世帯)、障害者(年金)と言った状況に追い込まれてしまいます。
15年連続で年間の自殺者3万人という記録は、この日本だけです。「借金苦」「失業」「介護」といった経済的・社会的な問題は確かにありますが、自殺者の直前の精神状態の大半は「うつ状態」にあり、その7割が向精神薬を服用していたのです。この事に関して、精神医学会はどう取り組もうとしているのでしょうか?
誰しもが、「落ち込んでしまう」ことは、よくあります。それが、「うつ病」や「躁うつ病」と名づけられたことから始まる悲劇は、本人及び家族にしかわかりません。今や、不眠やうつで殺される時代になっているばかりか、内気やあがり症などの「性格」まで「精神病」(社会不安障害)にされているのです。
「精神病」・・・それは、決して社会から差別や偏見の目にさらされる対象ではなく、皆さんも同じように、明日、同じような目に遭わされてしまうかも知れないという大きな危険性を伴う「構造的にねつ造された病気」なのです。
現在、毎月、全国の精神病院では、1月に1500名以上もの入院患者が、薬物中毒で死んでいるのです(今年は、ある月に2035人)。
決して、メデアでは取り上げない事実の中にこそ、真実が隠されているのです。
第23回
もし仮に私が本当に「双極性感情障Ⅱ型」であれば、明日への不安や絶望感にうちひしがれていた2013年2月から、断薬をしてわずか、2ヶ月後に宮古市での慰問コンサートなど出来るだろうか?
2005年から約7年の時間をかけて、多くの文献資料を渉猟し「不義密通と近世の性民俗」をまとめ全国出版が出来るだろうか?
2011年の入院は、8年5ヶ月にも及ぶ向精神薬の副作用・相加作用による「薬害」ではなかったのか?(特に2009年から処方された強力な抗精神病薬エビリファイ)
2011年の退職で、仕事でのストレスがなくなり快方に向かう筈なのに逆に悪化したのは、薬害によるものではなかったのか?
確実に10年間にも及ぶ薬物治療で、次第にラピットサイクル化し、その波の高さも増していったのだ。明らかに「医原病」であったのだ。
冷静に自分の10年間を振り返ってみると、「双極性感情障害Ⅱ型」は明らかな誤診であったと思う。それは、強いて言えば「適応障害」「うつ状態」であったのだ。明らかに誤診・過剰診断によって薬漬けにされてしまい、本当の「躁うつ病」(双極性感情障害)にされてしまったのだ。
そもそも、「双極性障害Ⅱ型」(軽い躁とうつ)という概念自体、人為的につくられた「躁うつ病もどき」「流行病」で、実態は直のである。
実は統合失調症用の抗精神病薬の特許期限が切れそうになり、製薬会社がその利権を守るために「双極性障害にも適用出来る」と厚労省に申請し、それが認可されるという大きな背景があった。
精神医療界もそれに呼応して、一旦、「うつ病」と診断された患者を無理やり「双極性障害Ⅱ型」と診断を切り替え、一挙にその患者数が約2倍に膨れ上がっているのだ。
あれほど天職と信じ、34年間の自分の人生の全てをかけて取り組んできた高校教師の職を惨めな形で辞めざ、るをえなかったのは、一体、誰の責任なのだろう?一方的に奪われた10年、余りにも長く貴重な時間。失った多くの友人。4年間の経済的損失。差別や偏見による精神的苦痛。そして、何よりも喪失させられた自分の誇りや自信。
「医療裁判」で責任の所在をはっきりさせることが先ず頭に浮かんだ。現在、「精神医療被害連絡会」によると、今年になって全国で精神科医達の誤診・過剰診断、向精神薬の乱処方による薬害に対する「医療裁判」が10件起こされている。
「CCHR 市民の人権擁護の会」に寄せられている精神医療の被害事例・・そこには、傷害致死、強姦、強制わいせつ行為、詐欺、窃盗等々が、精神科医や看護師の手で医療の名の下で堂々と行われているのである。不眠症で苦しんでいる女性が心療内科に行った際、その日のうちから1日40錠もの薬剤を処方され、1年後に薬物中族で死んでしまった事例・・今や、「不眠症」や「うつ病」で殺されてしまう時代なのである。
第24回
一体、今まで、自分はどれくらいの向精神薬を処方されていたのだろうか?
2001年1月~3月初め。某「心療内科」で「うつ状態」と診断。
ルボックス50mg(抗うつ薬)・ソラナックス(ベンゾ系抗不安薬)0.4mg or メイラックス2mg(ベンゾ系・抗不安薬)2mg
2002年3月~5月初め。 同「心療内科」。
ルボックス50mg(抗うつ薬)・メイラックス2mg(ベンゾ系抗不安薬)
2003年4月~2004年1月。同「心療内科」。
ルボックス100~150mg(抗うつ薬)・ソラナックス0.8mg(ベンゾ系抗不安薬)
2004年2月~2011年5月。「大学病院」で「双極性障害Ⅱ型」と診断。1日平均3~5種類(漸増)・10錠。
リーマス(気分安定薬)800mg・トレドミン(抗うつ薬・SNRI)75mg×7ヶ月、デパゲン(抗てんかん薬・気分安定薬)800mg×1ヶ月、セレニカ(抗てんかん薬・気分安定薬)1000~1200mg×5年10ヶ月、ドグマチール(抗精神病薬)50~100mg×7ヶ月、エビリファイ(抗精神病薬・DSS)3~12mg×2年6ヶ月、ラミクタール(抗てんかん薬・気分安定薬)75mg×2年9ヶ月、コンスタン(ベンゾ系抗不安薬)0.8mg×1年6ヶ月、デパス(抗不安薬)1mg×3ヶ月、レンドルミン(睡眠薬)0.25mg(頓服)、ロヒプノール(ベンゾ系睡眠薬)2mg(頓服)
この間に主治医が4人変わったが、3人目の主治医から、状態の悪化に伴い、それまでのリーマス・トレドミン→セレニカから、リーマス・ドグマチール・エビリファイ・コンスタン・ラミクタールに処方薬が大きく変わっていった。
2011年3月 早期退職。
2011年5月~6月。「個人病院」に入院(父の死に伴い、実質3週間)。大学病院で「双極性障害Ⅰ型」と診断。
リーマス(気分安定薬)400mg×1ヶ月、デパゲン(抗てんかん薬・気分安定薬)1200mg×1ヶ月、エビリファイ(抗精神病薬・DSS)24mg×1ヶ月、ロヒプノール(ベンゾ系睡眠薬)2mg(頓服)
2011年7月~2012年3月。「同」通院。1日平均4種類6~14錠。
リーマス(気分安定薬)400~800mg×6ヶ月、セレニカ(抗てんかん薬・気分安定薬)800~1200mg×6ヶ月、エビリファイ(抗精神病薬・DSS)3~18mg×6ヶ月、ラミクタール(抗てんかん薬・気分安定薬)25~200mg×1ヶ月、ドグマチール(抗精神病薬)100mg×1ヶ月、セロクエル(抗精神病薬)25mg×1ヶ月、ロヒプノール(ベンゾ系睡眠薬)(頓服)
2012年4月~2013年3月。「同」通院。主治医変わる。1日平均4~5種類14~18錠。
リーマス(気分安定薬)800mg×3ヶ月、セレニカ(抗てんかん薬・気分安定薬)800mg×3ヶ月、ラミクタール(抗てんかん薬・気分安定薬)800mg×3ヶ月、ジェイゾロフト(SSRI)50~75mg×3ヶ月、セロクエル(抗精神病薬)25mg×3ヶ月、ジプレキサ(抗精神病薬)5~10mg×3ヶ月、トレドミン(SNRI)50mg×1ヶ月、ロヒプノール(ベンゾ系睡眠薬)(頓服)
この主治医は、双極性障害に対して、自分の気分の周期にあわせ抗うつ薬を早めに飲むことを勧めた。聞き慣れない初めての薬が次々と出され、薬の総量は増え、状態は一ヶ月おきのラピットサイクルを呈した。明らかな多剤大量処方による薬害であった。症状に耐えかねた私が「漢方薬はどうなんでしょうか?」と聞くと、この主治医は「漢方、分からないんだよなあ」。そして続けて発した言葉を私は今でも鮮明に覚えている。「森山さんに効く薬はないんだよなあ」。
多くの精神科医が、ほとんど無視している向精神薬の添付文書には、次のような薬の副作用に関する記述がある。20年にわたる治療期間の中で、ただの一人としてインフォームド・コンセント(事前の説明と服薬の承認)をした医師はいなかった。自分に処方された向精神薬の副作用について該当する部分を添付文書から抜き出してみる。
第25回ー処方された向精神薬の「添付文書」からー
多くの精神科医が、ほとんど無視している向精神薬の添付文書には、次のような薬の副作用に関する記述がある。20年にわたる治療期間の中で、ただの一人としてインフォームド・コンセント(事前の説明と服薬の承認)をした医師はいなかった。自分に処方された向精神薬の副作用について該当する部分を添付文書から抜き出してみる。
先ず、2001年、最初に心療内科で処方されたルボックス(抗うつ薬)。「重要な基本的な注意」の中に、「不安・焦燥・興奮・・軽躁が現れることが報告。症状の増急が観察された場合は、服薬量を増量せず、徐々に減量し中止するなど適切な処置を行うこと」。又、「その他の副作用」として「抑うつ感・焦燥・不安感・躁転・吐き気・悪心・口渇・食欲不振」とある。
又、同時に処方されたメイラックス(ベンゾ系抗不安薬)の副作用には、「不安・いらいら・依存」とあり、復帰直後の、地に足がついていないような高揚感や、2度の復帰に失敗した時の強烈な不安感や気分の落ち込みがこれに該当する。
明らかに「抗うつ薬は、薬の耐性を形成し、気分のサイクルを増強し、波を大きくし、まるで躁うつ病のような状態に悪化させた」(『精神科医は今日も、やりたい放題』・内海聡)のであり、それが2004年、大学病院でのインターンの問診(チェクリスト)だけで「双極性障害Ⅱ型」(軽躁とうつを伴う。躁とうつを繰り返すのがⅠ型)という誤診を生んでしまったのだ。
元々、この「双極性障害Ⅱ型」というのは、他の精神病の多くがそうであるように、薬害による医原病なのである(「薬剤性双極性障害」)。最近では、多くの「うつ病患者」が、後に「双極性障害Ⅱ型」に診断し直された大きな流れの中で引き起こされた「流行病の1つ」あるいは、「躁うつ病もどき」ともいえる代物なのである。
その大きな流れの背後には、特許期限の切れた薬(例えば、イーライリリー社のジプレキサー抗精神病薬・統合失調症用など)を、双極性障害の「躁にもうつにも効く」と「適用外処方」(適応拡大)として申請し、特許の期限延長を認可されていた(2012年)。同様な動きは、グラクソ・スミスクライン(GSK)のラミクタール(抗てんかん薬)(2011年)、大塚製薬のエビリファイ(統合失調症用・抗精神病薬)も、双極性障害の「躁」にも効くとして適応拡大を申請し認可されていたのである(2013年)。
2004年から2008年までの5年間。2人の大学病院での精神科医による向精神薬の処方はどうであっただろう?
リーマス(気分安定薬)の血中濃度は当初、2005年の8月まで、0.47・1.01・0.84・0.95・0.39・0.83・0.49・0.80・0.48・0.80と推移し、以後、安定していた。この間、処方されていたリーマス(気分安定薬)、トレドミン(抗うつ薬・SNRI)、セレニカ(抗てんかん薬・気分安定薬)、ドグマチール(抗精神病薬)の添付文書をみてみよう。
リーマスの「副作用」には「不眠・焦燥感・口渇・嘔気・下痢・食欲不振・胃部不快感・倦怠感・性欲減退」などが記され、ほぼどれも該当する。又、リーマスの「併用注意」としてトレドミンが明記されているにも関わらず(セロトニン症候群、軽躁病)、最初の主治医はそれを無視し続けていたことになる。(2つの薬は、7ヶ月間併用されていた)。
トレドミンの「副作用」の中の「操転・焦燥感・不安・錐体外路症状(左手の指先の震え)」が、又、セレニカの「重大な副作用」の中の「脳の萎縮・認知症様症状(健忘・知能低下・感情鈍麻)」がそれぞれ該当する。
ドグマチールの「副作用」の中の「錐体外路症状」が該当する。
2人目の主治医に、処方薬の「副作用」に関して聞いたところ、私の目の前で、「薬の副作用辞典」を一生懸命頁をめくって長い時間、調べていた姿を思い出す。
2009年~2011年の2年間はどうであったろう?
3人目の主治医(女医)は、前任者から「向精神薬の専門家」と私は聞かされていた。この医師が新たに処方したエビリファイ(抗精神病薬・DSS)、ラミクタール(抗てんかん薬・気分安定薬)、コンスタン(ベンゾ系抗不安薬)の添付文書ではどうだろう?
エビリファイの「赤枠の警告」には、「口渇・多飲・多尿・頻尿・・・などの異常に注意し」とあり「重要な基本的な注意」には「不安・焦燥・興奮・不眠・易刺激性・敵意・攻撃性・衝動性などが報告されており、これらの症状の増悪が観察された場合には、服薬量を増量せず、徐々に減薬し中止するなど適切な処置を行うこと」とある。
ラミクタールの副作用の中の「不安・焦燥・興奮・不眠・チック(左頬)・錐体外路症状・嘔気・下痢・食欲不振」がそれぞれ該当する。
コンスタンの副作用の中の「突然中止した場合、強烈な不安感に襲われる」。この頃から、靴下を立ったまま履くとき、体のバランスをよく崩し、コーヒーを飲んでもコップにしずくをよく残した。
2011年5月~6月の入院は、2003年以来の向精神薬による副作用、相互作用、とりわけエビリファイによって助長された医原病によるものであったのだ。
第26回
精神科医や心療内科医は、一時的な対処療法しか出来ないし、決して向精神薬の副作用や離脱症状、後遺症などについては口にせず、それらの訴えに対して「病状の悪化や再発」と言い続ける。
添付文書やインフォームドコンセントの無視。向精神薬の副作用を消すためにも、様々な薬を次々と変え、気がつけば長期間にわたる多剤大量処方に陥っているのが現状である。薬害の知識の全くなかった当時の私は、新しい薬を処方される度に「今度は少しは良くなるかもしれない」とかすかな期待さえ抱いていた。「そのうち、もっといい薬が開発されるに違いない。それまでの我慢だ」。明らかに無知だったのである。誰しも、「専門家のいうことだから間違いない」と、その発言に盲従してしまう。
向精神薬は肝臓で代謝仕切れなかった成分が血中に流れ出て、脳機関を通過して様々なホルモンに作用する。適正用量は単剤の場合を指すが、単剤の用量で既に肝臓の処理能力を超え、肝臓内の消化酵素(個体差が大きい)との関連で、日本独自の多剤大量処方(元々は統合失調症用の処方)では、肝臓の処理能力を超えて、薬物の血中濃度を上げ、副作用や相互作用(競合・阻害)のリスクを加速度的に増大させてしまうのである。元々、多剤大量処方は、薬理学を無視した処方なのである。
私が処方された薬の種類は、診断が「双極性障害Ⅱ型」でありながら、ムードスタビライザー(抗てんかん薬・気分安定薬)、メジャートランキライザー(統合失調症用・抗精神病薬)、抗うつ薬、抗不安薬など、その大半は「適応外処方」なのである。実は、現在、バブル現象化している発達障害と診断された児童への処方されている向精神薬の大半も「適応外処方」でしめられている。
年を経るごとに、上述のように、気分の変動の波が高くなり、ラピットサイクル化していったのは、向精神薬の成分が、脳内や体内の脂肪に次第に蓄積されていったからに他ならない。急激な気分の落ち込みで、何もかも嫌になり、ほぼ1ヶ月もソファに横になっていたのも、又、その後に幾度もやってきた躁転・不眠も同様である。
気分が落ち込むと同時に、「自分はどうしてこんな病気になってしまったのか?」と、無理を重ねてきた過去を悔い、将来への明確な目標を持てない自分を嫌悪し、「今」を十分に生きれなかった。逆に気分が上がると、急に元気が出てきて(躁転)、多弁・多動となり「これが本来の自分だ」と思い込み、全く疲れを知らない活動を行ってきた。こうした大きな変動を何十回繰り返したことか?
本来、「心」には「自然治癒力」が備わっているにも関わらず、それを薬剤で無理に上から抑え(メジャートランキライザー・抗精神病薬)、逆に下から無理矢理持ち上げようとしたり(抗うつ薬)、安定させようとする(ムードスタビライザー・抗てんかん薬・気分安定薬)を処方された。当然、その反動が起きてくることは素人でも容易に想像できる。長期間にわたって向精神薬を飲み続ければ、薬への耐性が増し、依存性を強め、ますます脳が破壊されていくのだ。そして、何よりも精神力自体を弱めていく。その中でも、自分への自信や、明日への気力の喪失が最大なものであろう。
第27回
「医療裁判」で責任の所在をはっきりさせることが先ず頭に浮かんだ。
現在、「精神医療被害連絡会」によると、今年になって全国で精神科医達の誤診・過剰診断、向精神薬の乱処方による薬害に対する「医療裁判」が10件起こされている。
「CCHR 市民の人権擁護の会」に寄せられている精神医療の被害事例・・そこには、傷害致死、強姦、強制わいせつ行為、詐欺、窃盗等々が、精神科医や看護師の手で医療の名の下で堂々と行われているのである。不眠症で苦しんでいる女性が心療内科に行った際、その日のうちから1日40錠もの薬剤を処方され、1年後に薬物中族で死んでしまった事例・・今や、「不眠症」や「うつ病」で殺されてしまう時代なのである。
2013年、米国精神医学会の診断基準・マニュアルである「DMS-Ⅴ」では、500種類もの数多くの新しい精神病名が追加され続けている。それも精神科医達の多数決で。
幼児性双極性感情障害、幼児性統合失調症、発達障害、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、アスペルガー症候群等々・・。それらを丹念に当てはめていけば、精神病に該当しない人間など地球上で一人もいなくなる。
その狙いは明らかである。製薬会社や病院の利益のためである。さすがに、そうした精神病の乱立・膨大な薬漬けの方向性を批判する発言が、2012年、米国精神医学会前会長のアレンフランシスによってなされた。又、2013年の日本精神神経学会で「薬でうつ病が作られている」ことを認める発表が行われ、さらに2013年、遠藤 によって「精神病は疾患ではない」という発表もなされた。ところが、躁うつ病は、従来のⅠ型・Ⅱ型にさらに、薬害によるものを「双極性感情障害Ⅲ型」と新たに規定された(「うつと気分障害」岡田尊司・幻冬舎新書・2010年刊)。自分達の責任問題には全く触れずに。もう、ここまでくれば出てくる言葉さえ失ってしまう。今や「内気」や「あがり症」、「神経質」は「性格」ではなく「病気」とする本まである(「不安症を治す」大野裕・幻冬舎新書)。
薬害の全ての責任は、製薬会社と精神科医や心療内科医、看護師、薬剤師、保健師、カウンセラー、精神保健福祉士、(家族会)そして、精神医学会やうつ病学会の主張を鵜呑みにしてきた厚生労働省にある。これらは皆、利権で深く結びついている。製薬会社は、新薬の副作用は全くないと精神科医達を広告塔として利用し、研究費の名目で多額の資金供与を行っている。例えば、「向精神薬には全く副作用はなく、安心して飲める」と主張し続けていた、日本うつ病学会理事長・防衛大学教授野村総一郎は380万円もの資金を製薬会社から受け取っているのである。他に香山リカ・・・・・。
実は向精神薬の長期間・多剤大量処方は、日本だけの問題であり、他の先進国ではその医療行為自身が犯罪であり、アメリカでは、同様の処方で死亡事故が起きれば、医師には殺人罪が適用される。逆に言えば、日本でのそうした処方は、向精神薬の副作用や相加作用を曖昧にし、薬相互の因果関係や処方責任者を隠蔽する結果をもたらしているのである。はじめから、それを意図していたとすれば、医療犯罪行為はより悪質・巧妙であるとさえ言える。
こうした向精神薬の長期間・多剤大量処方による被害に対して、2008年、幾つかのマスコミでその所在が報じられ、2009年、国会で初めて取り上げられ、厚生労働省は、「過量服薬防止について」という勧告を、全国の地方自治体、精神医療主要4団体に対し行った。初めて国が向精神薬の多剤大量処方が不適切であることを認めたのである。その後、精神医療被害連絡会などの陳情によって、厚生労働省は薬害の一部の調査をようやく開始した。
2012年9月9日、省内の、「自殺・うつ病対策プロジェクトチーム」が、「服薬への取組」というレポートを公開した。それには「自殺と精神科受診・薬の関連性を認めたこと。30万件の処分分析を行うこと。明らかに不適切と思われる事例を把握・確認すると宣言したこと。医療機関や薬局に、患者への薬剤に関する効果的な情報提供について検討していることが盛り込まれていた。依然として、「薬物への依存という認識が不足しており、医師に処方を求めてしまう」と、薬害に関して、患者側の責任であるかのような表現も多々あり決して十分な内容ではなかったが、初めて被害者の声が反映された画期的なものであった。
第28回
このようにみれば、患者側からすれば、簡単に病名をつけらることから全ての悲劇は始まるのである。元々、主観に基づく診断に科学的な根拠などあろう筈もない。
精神科医は80年前には、何ら科学的な根拠を持たずに医療行為を行っていたことから「医者もどき」と心理学者や精神分析医達からさげすまれていた。彼らは、科学的な診療の根拠を求めた。これに莫大な利権を求める製薬会社の向精神薬の開発とが結びついたのだ。新薬の特許申請から認可まで長期の時間が必要とされる事から、膨大な研究費をペイするために、中身はそのままで、名前だけ変えて次々と発売された向精神薬も多い(ジェネリック薬品)。
今更、言うまでもなく、脳の中枢神経に直接作用する睡眠薬や向精神薬が、人体にいい影響を与える訳はない。成分は農薬と同じ化学物質からなる。麻薬・覚醒剤と何ら変わりがない。それらは、逆に薬の副作用や依存性をもたらし、長期間、多剤大量の投与による薬害-認知能力・運動能力の減退や自殺念慮までも引き起こしてしまう。
20代の若者の自殺の多くは、向精神薬の処方によるという報告もある。他に離脱症状や禁断症状、後遺症は必ず残る。仮に断薬に成功しても、元通りには決して戻らないとする見解もあるのだ(「心の病に薬は入らない」内海聡・かんき出版・2013年刊)。
それほど、「睡眠薬」「向精神病薬」に副作用などないと言い張るのであれば、精神科医や心療内科医自らが、自分で飲んでみればいい。私は、そうした精神科医をただ一人だけ知っている。彼は、「うつになった精神科医」という自著の中で、向精神薬を飲んだところ、急に気分が悪くなり自殺念慮を起こし、急いでそれを止める薬を飲んだということを記していた。その後、その精神科医は、医師を辞めて沖縄に行ってしまったという。又、もう一人、精神科医を辞めた人物も知っている。良心的な精神科医は、自らの、毒性のある向精神薬による対処療法しか出来ないことの限界を感じ自ら辞めていったと想像する。
精神病の大半が薬害による医原病であることからすれば、薬で心は治らないばかりか、病状をさらに悪化させ、多くの患者を退職や離婚・自殺にまで追い込んでいるのだ。一旦、退職して特別雇用枠で再就職しても収入は減り、生活保護や障害者年金受給者へとさらに追い込まれる。精神科医達は、患者のそうした境遇はどうでもいいのだ。決して、人生相談に乗ろうなどとはしない。薬漬けになった患者を欲しているのである。患者や家族の側からすれば、一生、生活保護受給者とか障害者という社会的弱者のレッテルを貼られたまま隠れるように生きて行かなければならないのだ。
彼らは、自分の担当する多くの患者が再発し苦しんでいることを知っているはずにも関わらず、「一生、この病気は治らないから薬を飲み続けなければならない。」と言い続ける。本当にそう思っているのだろうか?向精神薬の薬害にとっくに気づいている筈なのにあえてそれに触れようとしないのはなぜか?なぜ、気づいていてもそれを糾そうとしないのか?
精神医療という美名のもとでの組織的な人格破壊や大量殺人を犯している事への、危惧や罪の意識はひとかけらも持ち合わせていないのか?私は、医師としてというよりは、人間として完全失格者であるとさえ思っている。
第29回
「精神医療被害連絡会」が、日本精神医学会に対して、各病気に関する寛解率や再発率のデータ提出を求めても一向に回答する気配はない。向精神薬の副作用に関して、日本うつ病学会会長の神渡は「一週間で辞めることが出来る」と発表した。その根拠はと問われると「経験」とだけ答えたという。自分で本当に向精神薬を飲んでみたのならまだしも、処方された患者の実態から発言できるような代物ではない。この発言に対して「精神医療被害当事者の会・ハコブネ」から、猛烈な抗議文が提出された。彼らは、「薬で心は治せない」「逆に薬が病状を悪化させていること」を十分承知の上で医療行為を行っているのだ。明らかな確信犯である。
うつ状態や不眠にもなったことのない精神科医が、うつ病や不眠で苦しむ人々の心を治せるはずがない。逆に言えば、精神科医を名乗るのであれば、何度かそうした状態になり患者・家族同様の苦しみを体験し、なおかつ、患者の前で、向精神薬を飲んでその安全性を証明した上で、毒性のある向精神薬ではなく、偽薬を処方することしか、してはならないのではないか。「向精神薬を一切使わない精神科医」こそが今、最も求められているのなのではないか。いや、元々の重篤な患者はごく少数とすれば、精神病の多くは存在せず、精神科医も心療内科も全てなくなることの方が望ましいとも言える。
こうしたでたらめな医療の背景には「優生学」思想がある。こうした精神科医達や診療内科医、看護師、薬剤師、保健師、精神保健福祉士、カウンセラー、さらには厚生労働省などが行っている精神医療の背景にあるのは、劣等な遺伝を否定する「優生学」思想である。旧ナチドイツや旧ソ連の時代、反体制側の人間を次々と「劣等者・精神病者」として、拉致・監禁・拘束・拷問(電気ショック)・殺人行為をしてきたという歴史的な背景を持っていたのだ。こうした、自分達と異なる人間を次々と排除してゆく考え方は、現在の職場や学校での「いじめ」や「自殺」問題にまでも影響をしている。
中流意識を圧倒的に持っている日本人は、普通ではないという基準だけで、差別や偏見の目で見、彼らを自分達の生活する社会から隔離してきた。かつての部落出身者やハンセン病患者への差別や偏見の歴史を想起して欲しい。
第30回
現在の、精神病とレッテルを貼られてしまった患者・家族達も社会からのいわれのない差別や偏見を受けているのと何ら変わりはない。無理矢理、病名をつけられ、「完治することは絶対不可能で、一生、飲み続けなければならない」と薬漬けにされてしまい、長期間にわたって多剤大量処方による、副作用・相加作用・禁断症状・後遺症に苦しめられ、退職・離婚・自殺・生活保護や障害者年金受給者として社会の片隅でひっそりと生きてゆくことを強いられてしまう。
彼らは(私も含めて)人生を破壊され、自分の一生を台無しにされてしまっている。そればかりではない。2012年から施行された「障害者虐待防止法」の存在そのものが、閉鎖的な精神病患者などの施設内での精神的・肉体的な虐待行為を物語っている。
発達障害・ADHD(注意欠陥・多動性障害)の多くが、愛着障害というべきものであるにも関わらず、保護者によって精神病院に無理矢理連れていかれ、児童が薬漬けにされている事例が急増している。本来の子ども達の個性が、平均的な基準からほんの少し逸脱しているということだけで、発達段階にある児童に、麻薬や覚醒剤を処方しているのである。そのように考えれば
保護者の行為は、児童虐待と何ら変わらない。詳細をここでは述べる余裕はないが、元々、児童の発達には、非定型型発達というべき領域が大きく、必ずしも、皆が皆、横一線で平均的な発達を遂げるわけではない。エジソン、ケネデイ、ビル・ゲイツ、トム・クルーズ、司馬遼太郎などの幼少期はどうであったか?「平均的な発達を求める」学校教育の立場から見れば、皆、平均以下の評価しか与えられていなかった。元々、何でも平均を求める現在の学校教育のあり方に問題があると思う。
その背後には、何でも「平等」を求める誤った平等主義がある。個人の適性や能力は千差万別。特定の分野での能力や適性が優れているのであれば、その部分を伸ばすことに力点を置くのが本人にとっては最も人間的な成長を促すことになる。なぜ、普通と較べて、劣っている部分の矯正にだけ目が向いてしまうのだろう。劣っている部分をそのままにして決して良いわけではないが、子ども達の全人的な成長や可能性を引出し、それを伸ばすことにこそ力を注ぐべきであろうと思う。繰り返すが、能力差があることを認めることを大前提としてとらえ治す必要がある。保護者が、しっかりと自分の子供に向き合い、その子の個性を踏まえ、未来への可能性を信じて一緒になってそれを育てていく姿勢が何より必要と思う。
もう一つ、子ども達をめぐる遊びや情報環境の変化がある。それは、「スマホ・ネット・ゲーム依存症」とも呼ばれるものである。昔のようにガキ大将を中心とした外での汗を流しながらの遊びではなく、友達の家に遊びに行っても、一人一人がゲームを勝手にやっているという特異な形態を想起してもらうだけでご理解できると思う。さらに、バーチャルリアリテイー(仮想現実)の空間の中で、ボタン一つで自分の思うままの展開に切り換えることが出来るなど、利己的独善的、現実感の喪失、周囲とのコミュニケーション能力の減退という弊害をもたらしている。
要するに自分の思っていることをはっきり主張できない、又、困難な状況を我慢が出来ない子ども達を数多く生んでいるのである。そして、そのスマホやネットが、そのまま、「書き込み」などのいじめの手段としても利用されている。又、それらは、自閉症スペクトラムや引きこもりを生む大きな原因ともなっている。こうした情報環境の激変に加えて、核家族化による、過保護・甘やかしが加わる。
第31回
先だって、ある児童養護施設に勤務していた女性からの電話で、次のような事実を知ることが出来た。総定員80名(2才~20才)の中の小学生低学年の子ども達約15名に、毎日、「統合失調症」用の薬(リスパダール)を飲ませているというのだ。
施設内では、想像以上の問題行動-集団万引き・施設への放火など-が多く、そうした問題行動を静めるために服用させているという。その女性は、見るに見かねて、地元の行政機関や厚生労働省に直接、電話で訴えたが、どれも「まさか」と全く取り合ってもらえず、止むにやまれず私まで連絡をよこしたという。ところが、どうしても自分の連絡先を教えてもらえず、目下、被害救済機関やメデアに連絡しつつ、フェイスブックでも呼びかけながら、彼女からの再度の連絡を待っている状態である。
もし、事実とすれば、そうした処方をした児童精神科医がいるわけで、しかも、現場の教師達が、何ら疑いも持たずに服用させている実態が浮かび上がってくる。まだ、脳の発達段階にある児童に、麻薬や覚醒剤を投与し続けているということを考えれば、彼らの行為は完全な児童への虐待行為と言える。
しかも、児童の大半は、施設を出てもそのほとんどがホームレスだというのである。さらに児童養護施設では、里親制度も補助金目当てで、まるで児童売買のような実態があるともいう。そして施設では、国からの補助金を得るために、常に定員を満杯状態にするために、拉致同様な方法を使っているともいう。この問題は、改めて別の機会にまとめなければと思っているが、不幸な生い立ちの、自らの判断力を持たない小さい子ども達が、精神科医や教師達によって行われていることは、明らかな人権侵害・虐待であり、児童一人一人の未来の破壊の何物でもない。そこにあるのは、利権の対象としての「もの」なのである。
現在、多くの問題を指摘されている児童相談所でも、親から無理矢理引き離された小さい子ども達を単に「静かにさせるために」、毎日、御飯に向精神薬を混ぜて食べさせているのだ。「発達障害」「ADHD(注意力欠陥・多動性障害)」などの病名をつけて・・。社会の一番弱いところで、向精神薬が精神科医達によって次々と乱処方されているのだ(現在は、既に製薬会社は向精神薬から各種ワクチンに製造・販売をシフトしつつある。この国は、世界で最大の向精神薬の在庫処分場である)。